シラノの感想のようなもの(前)

夏も盛りの8/7~8/15、東京FMホールにて上演された『音楽朗読劇 シラノ』を観た。私が観劇したのは以下の公演。

8/7公演(シラノ:福島潤さん、クリスチャン:伊東健人さん、ロクサーヌ:徳井青空さん)

8/14昼公演(シラノ:中島ヨシキさん、クリスチャン:伊東健人さん、ロクサーヌ:吉岡茉祐さん)

8/14夜公演(シラノ:中島ヨシキさん、クリスチャン:西山宏太朗さん、ロクサーヌ:吉岡茉祐さん)


前々から、推しが出演する作品の感想を書くのは難しいと思っていて。というのも、推しの演技について書けばいいのか姿勢について書けばいいのか、作品の内容について書けばいいのか構造について書けばいいのかよく分からないからだ。本当はそれらを総合的に書ければ良いのだが、そうするにはあまりにも文章力が足りない。ので、ばらばらと書く。いや勝手にしろよって話なんだけれど。にしたって全然まとまらなかったな。自分の想いを上手く言い表せない私は、観劇中も目当ての役者がクリスチャン役だということを差し引いてもクリスチャンの方に感情移入をしてしまっていた。

 

まずは全体としての感想になるが、あまりにも有名な作品であるせいか、パンフレットを開いた最初のページにあらすじとして結末までの一切が書かれているのがまず面白い。台本の1ページめにも舞台背景として登場人物がどうなったかが載っている。こういった戯曲では台詞の美しさであるとか、登場人物の心情を掴むことが大事とあらためて思い知らされた。普段からネタバレは全く気にしない質ではあるが、それでもネタバレを踏んでも影響のない世界というのは生きやすくて好きだ。

それから複数回入った感想としては、配役はもちろん、その組み合わせによって登場人物の見え方が全然違ってくるのが面白かった。Wキャスト制度を採用している舞台なんかを観ても毎度のように思うことではあるが、登場人物が3人に絞られた今回の朗読劇ではそれをより強く感じた。

 

さて、私はクリスチャンを演じる伊東健人さんを主な目当てとしていたわけだが、事前の予習として戯曲(新訳版)を読み、1990年版の映画を観た。その際思ったのは「シラノ役は難しい。けれど、クリスチャン役は場合によってはそれ以上に難しいのではないか?」ということだ。

シラノを演じる上での難しさは、その饒舌さから来る台詞量と、複雑な心情の表現にある。対してクリスチャンは、言葉を持てない者であるが故の苦悩を背負った人物だ。映画やその他映像媒体であるならともかく、朗読劇はその性質上、もちろん表情や動きも交えつつではあるが、基本的には声ですべてを表現しなければならない。心情を表現する台詞が少ないにも関わらず、だ。また、そのキャラクターの特殊性から、媒体や読み手の受け取り方などによっては良いところの何一つない噛ませキャラ程度の認識しかされないこともあるらしいというのも難しい。クリスチャンは、シラノと対称にある人間として設定されているためか、なかなか複雑な人物だ。美男子で、田舎の出。臆病さと語彙の少なさから好きな相手とは言葉さえ交わせず、しかし必要ならば勇気を振り絞って、饒舌な詩人であり上官(という表現が正しいのかいまいち自信がない。少なくとも先輩ではある)であるはずのシラノの語りを言葉で妨げることもできる。察しは良くないが、人間の心の機微への本能的な嗅覚は鈍くないようでもある。役割としては、シラノの恋の協力者とライバルの両方を担う。それらの数ある特徴のどこを強調するかで、田舎から出てきた教養に少し乏しい純朴な若者にも、顔の良さを鼻にかけたいけ好かない男にも見える(実態としては両方の性質を持っているんだけれど、ベースが異なってくる)。主人公であるために語りやモノローグが多く用意されており、ある程度明確な正解が存在するシラノよりも、可能となる解釈に幅があるように感じた。

そんな中で伊東さんは、それらの性質を一つ一つ吟味したうえで自分に合ったものを掬い上げてクリスチャンを構成しているようだった。ディズニープリンスのような風貌(これは衣装を担当したどなたかに心の底から感謝している)で身振り手振りや表情の変化も使いつつ、いつもよりややオーバー気味、というより舞台向けの話し方をする伊東さんのクリスチャンは、軍人気質が強くフィジカルにこそ自信はあるが、心の機微にはどうも疎いようで恋愛については奥手で自分が美男子という自覚は薄め…というよりは自覚こそしているもののそこにはあまりアドバンテージを感じておらず、言葉をうまく扱えないことへのコンプレックスが強い、といったような人物像に受け取れた。温度は低めだが爽やかな声や、あるいは真摯でやや不器用なご本人の性分によく馴染んでいて、伊東さんの演じるクリスチャンとしての最適解のように思った。

朗読劇の伊東さんは全身で芝居をしていてエネルギッシュで最高なのでみんなに観て欲しいです(話の締めがいつも願いになるオタク)。

 

 

 

 

以下はオタクのあまりに妄言すぎる妄言。


「僕は、愛されたいんだ。僕自身として。そうじゃないなら、愛されない方がマシだ!」

物語が佳境に迫った頃のクリスチャンの台詞である。直前の「いくら僕が美男子だからって、あなたの幸せを奪う権利はない。そんなのは不当だ!」と併せて、クリスチャンの台詞のなかで私が特別に好きなものだ。

クリスチャンはシラノの書く二人一役の恋物語の登場人物だったけれど、その自覚が薄いままに気づけばロクサーヌの愛は手紙の文章にのみ向かうようになり、クリスチャンはすっかり蚊帳の外となってしまう。そんなクリスチャンの絶望がもっとも色濃く表れるところであり、ただでさえ心の痛むシーンなのだが、それよりもこの台詞を聞いた瞬間、日常的にうるさいが観劇中は流石に大人しくしているオタクとしての自意識が「推しにそれ言われるのヤバいな!?」と突然起き上がってきたことが衝撃的だった。

我々オタクはどうしたってオタクで、舞台の上に立つ人間たちとは永遠の隔たりがある。もちろん芝居以外の場所で本人の人柄や思いを知る機会が沢山あって、だからオタクをやってはいるのだけれど、その全てや真にパーソナルな部分にはどうしたって触れられない(もっとも、ここに触れたいと思うかどうかは人それぞれである)。だというのに、そんなオタクが普段目を背けている部分を抉るような言葉を、第四の壁の向こう側からわざわざ本人が投げてくる。本人の姿で、本人によく馴染んだキャラクターで。普段はオタクからその対象への一方通行な思い入れに気楽さを感じているタイプではあるが、唐突に可視化された断絶には勝手に衝撃を受けては勝手に興奮した。

「僕は僕自身として愛されたい」という叫びはとても真っ直ぐな気持ちであるのだが、それまでのシラノ、およびクリスチャンの作中の行動を正面から否定するものだ。だからきっと、台詞だけではすぐに共感しきれないものだったと思う。しかし、オタクと対象の関係を被せることで、愛を失ったクリスチャンの絶望をまるで自分のことのように感じてしまった。日常が自意識大バトルのオタクであるかつクリスチャンに重きをおいて観ていたがゆえの奇妙な体験だった。この朗読劇でこんなことを思ったのは恐らく私だけだし、自分で書いていてもまったく意味不明なんだけれど、書き記しておかねばならないと思った。

絶対に意図していないところから勝手になにかを受信するというのはオタクの悪癖といえるところだが、楽しかったのでよしとする。

 

本当は8/14マチネのことをいちばん書きたかったのだけれど、それはまた別にしっかり書きます。